ぷちトラvol.13唐津くんち特集「昭和の唐津くんち備忘録」 2011年10月発行

本町の老舗のお茶屋さんの8代目。もの心つく頃から8番曳山「金獅子」を曳き始め、以来一度も欠かしたことがないという。親族に不幸があった時でさえ、「ヤマにさわらんごと、遠慮しながら」参加したほどの“ヤマキチ”だ。
本町の老舗のお茶屋さんの8代目。もの心つく頃から8番曳山「金獅子」を曳き始め、以来一度も欠かしたことがないという。親族に不幸があった時でさえ、「ヤマにさわらんごと、遠慮しながら」参加したほどの“ヤマキチ”だ。

「言うこつきかんと、ヤマば曳かせんぞ!」て。私も小さい時からヤマ一途やったから、大人の言うことはようききよったです。

ヤマのある町内に住んどるものは、ヤマのことが一年中どっか頭の中にありますねえ。ヤマていうたらみんなすぐ集まるとですね。そいけん、ヤマを名目にして人ば集めて会合ばしよったです。 ヤマのある町内の子供は指導のよういきとどいとるて幼稚園の先生が言わすばってんが、指導ていう指導はしよらんとですね。そいばってん、ことあるごとに「言うこつきかんと、ヤマば曳かせんぞ!」て大人たちの言うですたいね。私も小さい時からヤマ一途やったから、よういうことはききよったです。 戦時中は大人の少なかったけん、ヤマ曳きは自分たち中学生が中心で、直線コースになったら前に行って台横についたり、角に来たら後ろに回って梶棒の応援ばしたりと一人何役でもせないかんかった。「いざという時は、おまえたち中学生は子供ば連れて避難せろ! ヤマはおいたち大人が守るけんが」て、空襲警報を気にしながら曳きよったですね。そうそう、当時は曳き子が足りんで、女ん人も引っぱって来いて言われよったですよ。 やっぱ、ヤマは自慢ですたいね。どこでも自分とこの祭りが一番て思うように、唐津んもんは日本中世界中どこへ行っても、唐津のヤマが一番て思いますもんね。ニースのカーニバルに参加した時も、唐津だけアンコールの拍手のちごとったですもん。衣装も珍しかったとでしょうね、やっぱ唐津はお洒落のごたる。お金のかけ方の違う。唐津んもんはみんな見栄張って衣装ば競い合いますからね。 今はもう年ですから、くんちの時はヤマの後ろからついて行くだけ。普段は歩くことのなかですけど、不思議とそん時だけは疲れんとですね。みんな元気かですよ。これ普通じゃなかですか? どこでもおくんちが中心で回りよっとじゃなかですか? 

 

「金獅子」と現役時代の中川さん。躍動感あふれるその背中から、喜びがあふれている。



女たちはごちそう作りで精一杯。おくんちの準備はきついけど、みんなでおしゃべりする楽しみはありましたね。

子供の頃は「ヤマが来たよ!」て言われると、ぱっと駆けて見に行きよったですが、結婚してからは表でドンドンいいよるのは聞こえるけど、お姑さんから「まだ、おごっつぉ(ご馳走)ができてないからダメ!」て言われて(笑)。 昔はおこわから何から全部自分たちで作りましたからね。煮しめ、刺身の盛り合わせ、から揚げ、酢漬け、辛子蓮根、巻きずし、オードブルも10品くらい、それに甘酒も。鉢盛なんか、よそから取っても味がないですよね。 うちは菓子の小売りだけでなく卸しもしていましたから、お得意さんなんかも招待してお客さんが多かったですね。だから、姉とか従妹とかおばとかに手伝いに来てもらうんですが、みんなそれを楽しみにしてくれていました。くんちの時は手伝いとくんち見物とで、合わせて20人ぐらい泊まりに来ていたので、2階に敷布団だけ敷いて、それぞれ空いたところにもぐり込んで男も女も一緒にごろ寝。でも、いやだ~なんて思わんかったですね。 うちのおじいちゃん(夫)は10月28日生まれ。昔のくんちは10月29日だったから、お姑さんは大きなお腹かかえてぎりぎりまでおくんちの用意して、28日にもう駄目~ていうて、おじいちゃんが生まれたそうです。昔は自分のうちで出産していましたからねえ。その話は今でも忘れられないですねえ。 そのおじいちゃんも、今年で82歳。「ヤマば曳かんとならもう法被はいらんだろ?」て言うけど、「いや、それはいる!」て(笑)。だから今でも法被だけは用意してやらんといかん。男の人はいつまでもくんちが楽しみだから。 でも女の人も、「いやねえ」「またおくんちねえ」「きつい思いせないかんねえ」とか言いながら、くんちがないと寂しい。今でもヤマ曳きさんなんかがうちに来られると、ああおくんちだなあて思いますもんね。

 

昭和32年長女誕生。お姑さんからくんち料理の腕を鍛えられていた頃だ。

子供の頃は祖母が住む材木町の曳山「亀と浦島太郎」にのめり込んでいたが、20歳で中町の菓子屋に嫁いでからは中町の「青獅子」一筋。くんちでは普段はなかなか会えない家族や親せきたちが集まってくるのがまたうれしかった、と。
子供の頃は祖母が住む材木町の曳山「亀と浦島太郎」にのめり込んでいたが、20歳で中町の菓子屋に嫁いでからは中町の「青獅子」一筋。くんちでは普段はなかなか会えない家族や親せきたちが集まってくるのがまたうれしかった、と。


大石町のブリキ職人の家に生まれる。戦前、佐賀の銀行に勤務していた頃は、くんちになると 毎年「親父の病気」を理由に帰省していたそうだ。戦後は地元で働きながら、くんち一筋の人生。 ヤマの本部組織の副総取締も務めた。
大石町のブリキ職人の家に生まれる。戦前、佐賀の銀行に勤務していた頃は、くんちになると 毎年「親父の病気」を理由に帰省していたそうだ。戦後は地元で働きながら、くんち一筋の人生。 ヤマの本部組織の副総取締も務めた。

戦地では中国の大砲の音がタン・タン・タン!て響いて。塹壕の中で「ああ、ヤマの太鼓んごたんなあ」て思ったとよ。

くんち!くんち!言うて、わっかもん(若者)はのぼせるもんね。商売よりもくんちじゃもん。息子や孫どんには言うっさい、「くんちじゃ飯は食えんばい!」て。祖父ちゃんもそうやったろ、て言われるけど「おいは違う。ヤマキチじゃなかったばい!」て(笑)。 ヤマば曳けんかったとは、昭和18年に召集されてから22年に復員するまでの間。所属部隊はビルマ、マレーシア、シンガポール、インパールと南方の激戦地を転々として、最後はビルマで玉砕。自分はその2か月前に軍司令部に配属されて助かった。戦地では来る日も来る日も山の中を逃げてばっかりやった。中国が大砲をタン・タン・タン!タン・タン・タン!て撃ってきて、塹壕の中でその音を聞きながら「ああ、ヤマの太鼓んごたんなあ」て思ったことを覚えとる。 戦後は捕虜になって、唐津に帰ってきたとが昭和22年の8月。その年のおくんちは今でも忘れられん。10月9日の初くんちの日にお宮に提灯を持って行った時に、ああ日本に帰ってこられたばい!て実感したとよ。本当にうれしかったね。 一番楽しかったこと? やっぱニースのカーニバルやね。人間が曳く唐津のヤマは外国人には珍しかったんやね、鯛ヤマにバ~ッて観客が寄って来て。そこどけ!そこどけ!どいてくれ~って、人をかき分けかき分け、どかんか!どかんか!ひかるっぞ~って。気持ちのよかったっさ~い(笑)。 ほかにもオランダやらディズニーランドやらハワイやら、日本でも神宮外苑やら心斎橋で曳いたばってん、ヤマは大きい道を曳いてもダメやね。こも(小さく)しか見えん。魚屋町やら大石町のごと、狭い通りを電柱よけながら、こっちぞ!こっちぞ!言いながら曳かないかんとよ。 唐津はよかとこ? 唐津はヤマのなかなら、な~んもなかもんね。

 

6番曳山「鳳凰丸」は大石町の宝! 花島さんのきりりとした若き日の雄姿。
6番曳山「鳳凰丸」は大石町の宝! 花島さんのきりりとした若き日の雄姿。