濃い緑色の獅子の曳山が

いつの間にかいなくなった、らしい。

はい、濃い緑色の獅子は確かに存在していました。それは「青獅子」と「珠取獅子」です。色漆の色素の大半は日光にさらされると段々と色あせていくため、くんちの曳山も約30年に一度のペースで塗り替えが行なわれます。その際に塗り師の方々は5年先10年先の色あせた状態でちょうどきれいに見えるように、少し濃いめの漆で塗り上げられていたようです。ところが実際には予想通りにいかない場合もあり、かつて「青獅子」や「珠取獅子」は黒に近い緑の状態だった時期があるのです。今は漆の調色の技術も上がり、色あせも抑えられて鮮やかな緑色が保たれるようになりました。


「鯛」のほかにもうひとつ

魚の曳山があった、らしい。

あった、ではなく作ろうとしていた町がありました。それは八百屋町で、三ツ尾の大きく動く「金魚」曳山を計画していたそうです。残念ながら曳山は完成に至らず、台車だけを他の町内へ譲ったという話が伝わっています。八百屋町の「金魚」が完成していたら、子ども達の人気を「鯛」と二分することになっていたかもしれませんね。なお、八百屋町は唐津の城下町の中でも本町・呉服町に続く由緒ある町で、現在も唐津神社のお神輿の飾り付け当番町のひとつとして8年に一度奉仕されています。


3番曳山には最初、

浦島太郎ではなく

宝珠が乗っていた、らしい。

3番曳山は「亀と浦島太郎」ですが、以前亀の背中には「浦島太郎」ではなく「宝珠」が乗っていました。明治16年製作「唐津神祭行列図」の亀の背中にも宝珠が描かれています。ところがその「宝珠」以前はやっぱり「浦島太郎」でした。衣装が唐津城主の小笠原のお殿様からの拝領もので、その衣装を傷めるのが恐れ多いということで「宝珠」になり、その丸い「宝珠」が巡行中にころがってしまうため、「浦島太郎」の再登場となったそうです。これらにまつわる面白い話は色々と伝わっています。


この頁のイラストはおじゃがさんが4歳頃に描いたもの。どれもいい味出しています。


というわけで、唐津くんちの曳山についての知識をもっともっと深めたいという方は、「曳山まにあ・おじゃがの独り言」をネットで検索してみてください。

 

【おじゃがさんのプロフィール】

1970年代西唐津生まれ。保育園児の頃からの坊主頭のために『じゃが』とあだ名をつけられ現在に至る。こだわり好きで凝り性のオタク体質で、マンガやゲームも好きで山車の出るお祭りも好き。唐津くんちの歴史に迫る話題のうわさ話は『曳山まにあ・おじゃがの独り言』。