2013年ぷちトラvol.17 唐津くんち特集 唐津くんち、うわさの真相。

この特集は、2012年の唐津くんちの取材をもとに構成しました。 


 結論から言いますと、うわさは本当です。

 江戸から明治にかけて製作された各町14台の曳山がつらなって旧城下町を巡行する唐津くんちでは、その順番は製作年の若い曳山からと決められています。1819年、14台の先陣を切って奉納されたのが刀町の「赤獅子」。これを1番曳山として、1824年の「青獅子」、1841年の「亀と浦島太郎」と続き、最後は1876年奉納の14番曳山、江川町の「七宝丸」でしめます。

 ところが、この14番曳山と水主町の13番曳山「鯱」がいつの間にか入れ替わっているという珍現象が毎年確認されているのです。それは、くんち最終日の11月4日に限られます。しかも、もとをたどっていけば唐津神社前を出発する時点からすでにあべこべに。

 これはなぜかといいますと、「鯱」と「七宝丸」の製作年が同じ1876年だからです。そこで当初は1年ごとに順番を入れ替えることで両者は手打ちをしていたのですが、いつしか現行の順番に固定されます。その代わりに最終日の町廻りの日だけ、順番を逆にすることが約束事になったそうです。

 なるほど。でも、ここで疑問がムクムクと…。くんちのフィナーレ、曳山展示場に格納する時にはちゃんと「七宝丸」がトリを務めているではないか、と。そうなのです。ではまたどこで順番が入れ替わったのかといいますと、米屋町通り曳き出し後の、江川町に向かう「市役所前」です。その現場にたまたま居合わせた人たちはきっと「えっ、これは何事?」と思われたことでしょう。先を行く14番曳山がいきなり道路の端へ寄って、そこで一旦待機。13番曳山を見送ってから再び動き出すという、入れ替えの儀式が行われるのです。

 くんち最終日の後半は、名残惜しさで曳き子たちがひと盛り上がりしますが、この「市役所前」もまたそのひとつの見どころとなっています。

 

2013年ぷちトラvol.17 唐津くんち特集 唐津くんち、うわさの真相。

この特集は、2012年の唐津くんちの取材をもとに構成しました。 


昭和31年の曳山の曳き出し風景。曳山巡行最大の見せ場です。
昭和31年の曳山の曳き出し風景。曳山巡行最大の見せ場です。
小学校が建設される前は、こんな御旅所の風景でした。
小学校が建設される前は、こんな御旅所の風景でした。

 「なぜか重機で掘り起こされる場所」というのは唐津湾に面した西の浜の一角。11月3日に神事が行われる御旅所です。

 西の浜は唐津神社の御神体が流れ着いたとされる聖地で、唐津くんちでは当初からここを御旅所と定め、神幸のお供をする曳山たちは神輿と共に砂浜へ曳き入れられていました。これが曳山巡行最大の難所で、台車が砂地にめり込むところを、曳き子たちは息を合わせ力を合わせ気合いで突破します。この迫力あるシーンに観衆も大喝采で、唐津くんち最大の見せ場となっていました。

 しかし、昭和30年代に入って御旅所だった場所に小学校が建設され、くんちの時だけその校庭を御旅所として使用させてもらう、という状況になってしまいます。海は校舎にさえぎられて見えなくなり、地面も砂地ではなくなりました。それでも、最大の見せ場としての曳山の曳き込みはなんとか残したいということで、地面を掘り起こすための重機の登場となったのです。

 ただ、このショベルカーによる作業がとても微妙で、掘り起こしが浅いと曳き込みがすんなりいき過ぎて盛り上がりに欠けるし、深過ぎると重量級の曳山が立ち往生という事態になるし、掘り起こした後に雨が降ると地面が再び固まってしまうし。関係者は大変です。

 正直、初めてこのシーンを見た時は、なんでわざわざ学校の校庭に曳山を曳き込むのか、なんでここが最大の見せ場なのか、よくわからなかったのですが、この事実を知って納得。ここはもともと神聖なる砂浜だったんだ…と。

 小学校はすでに廃校となっていますが、一唐津くんちファンとしてはいつか再び、海の見える御旅所が復活することを願ってやみません。